玉縄城築城500年祭発会式と記念講演会レポート

11/22、玉縄城500年を三年後に控え、地元ではその実行委員会の発会式を兼ねた記念講演会が開かれました。玉縄城の場合、遺構が清泉女学院内にあるということで、なかなか中が見られないという難点がありますが、今回は存分に学校内を探索できるということで、行ってきました。
 すでに四年ほど前に、諏訪壇には入ったことがあるのですが、堂々と校庭まで見られるのは初めてでした。これほどの企画はめったにないにもかかわらず、知人が五人ほどしかいらしておらず残念でした。
 この城はとにかく大きいです。今回は中心部から周囲を見回すことになりましたが、本曲輪の広さは格別です。とにかく、この本曲輪の広さは行ってみないと実感できないものです。全体の城域を考えると、まさに関東屈指の巨大城郭だったはずです。
今回は、特に大手側の土塁(土壇)をじっくりと見学できたのが収穫でした。土塁を盛ったというよりも、中を削平したという感があるほど、この土塁は巨大です。昭和33年の空撮によると、この土塁が四囲を取り巻いていたのですから驚異です。学校&宅地開発により、ほとんど破壊されてしまったのが、返す返すも残念でなりません。
 講演の内容は、通常のシンポと違い、初歩的な話が中心だったのですが、パネルディスカッションに入り、ポツリポツリと面白い話が聞けました。玉縄城に関する論文などはほとんど読んできましたが、新たに出た話としては以下になります。

・ 二代氏綱が急死し、氏康が跡を継いですぐ、頼りにしていた弟の為昌が病死し、氏康が頼れるのは幻庵と綱成だけとなった。氏康政権は、この三人が中心となって運営していた三頭体制だったと思われる。特に軍事面での綱成の貢献は大きかった。
玉縄城は水軍の拠点城というイメージが強い。北条氏にとって江戸湾支配は重要であり、氏規にバトンタッチするまでは、それを玉縄衆が担ってきた。玉縄水軍と呼べるものまで持っていて、江戸湾警戒のみならず、相模湾の腰越辺りまでカバーしていた。
・ 北条家の領国支配は二形態あり、氏照の八王子領、氏邦の鉢形領のように、小田原が完全に丸投げしているものから、玉縄領と小机領のように、軍事専門部隊として働かせられつつ、内政は小田原に任されていたものとある(ような気がする)

他にもありますが、だいたい新規なものとしてはこんなところです。水軍イメージはかなり持っていたので、それほど驚くこともなかったのですが、その他の二つは気がつきませんでした。確かに大藤氏の率いる部隊のような半傭兵軍団のようなものもありましたが、玉縄衆もその色彩が濃かったのですね。
 ということで、帰りは大船でいっぱいやって帰ってきました。いつものことながら、同じ趣味の方々との語らいは楽しいでね。
写真は、玉縄城大手口模型、土塁と大手口、校庭から見た諏訪壇