石神井城



久々のブログです。

先日、所要のついでに石神井城に行ってきました。
石神井城といえば豊島氏ですね。豊島氏は、文明八年(1476)の長尾景春の乱において景春方に与し、太田道灌に征伐されるまで、東京都の北西部を中心に、たいへんな勢力を誇った一大氏族だったのです。滅亡までの顛末は、拙著『疾き雲のごとく』に書かせていただきました。
 穏やかな日差しが降り注ぐ日ということもあり、石神井公園には多くの人が出ていました。皆、コサギとかカワセミの撮影に来ているようです。特に、三宝寺池里山の景観を残す湿地帯ですので、多くの種類の鳥が来ていました。
 資料は城郭体系と「関東百城」の該当ページをコピーして持参しました。これらにも書かれているように、石神井池と並行して走る台地の東側にはまったく遺構はなく、西側の三宝寺池の南台地(比高7m)に集中していました。むろん古くから公園として整備されてきたところなので、かつては東側にも何かあったかも知れません。だって舌状台地の突端部分に遺構がないというのはセオリー上、おかしくありませんか。
 ということで、本曲輪周辺の土塁と堀を見てきました。それ以外は、人の家の敷地内だったり、時間の制約もあったりで、見つけられませんでした。
立ち入り禁止と知らずに、本曲輪の中に入ったのですが、土塁と堀がよく残っていました。むろん遺構天国の上州や信州の城郭群とは比べ物にならない規模ですが、東京都内にこれだけの遺構が残っているところに意義があります。いずれにしても、煙滅している箇所が多く、全貌は掴みにくい城でした。
スケール感からすると、豊島氏が一大氏族で、道灌と死闘を演じたなどとは想像もつかない規模でしたが、それは本曲輪だけしか残っていないためで、おそらく当時は、一円に様々な遺構が造られていたことでしょう。

それでは最後に一句―。

行けそうでなかなか行けない近い城(字余り!)

仍如件