八王子城搦手オフ【第一部】

 本日は「後北条氏歴史探求会」の三回目のイベントにあたる「八王子城搦手オフ」が開催された。ガイドをしていただくのは、七十四歳になられる八王子城研究の草分け”前川實先生である。先生の著作「幻の八王子城」は、1988年に出されたものだが、今、読んでも新鮮で、驚かされることだらけである。
 今回は搦手ということで、参加人数が不安視されたが、当会からは私を入れて四名。ミクシイのコミュからは十一名。前川先生つながりで八名ということで、つごう二十三名の参加となった。搦手だけでこの人数はすごい。
 心源院に10:30に集合し、前川先生の解説を聞き出発。今年は「天地人」もやっているので、天正十八年の八王子攻めのルートを中心に解説するとのこと。その割には、先生、景勝と兼続をよく間違える(笑)。
 心源院は東に並ぶ小田野城とともに搦手を守る要害の一つ。武田家滅亡の折、仁科盛信の姉である松姫が高遠城から逃れてきて隠棲したことでも有名。当時、ここには舜悦朴山という偉い禅僧がいらして、百二十歳の長寿をまっとうしたとのこと。一般に寺の記録には、いい加減なものが少ないので事実と思われる。また、心源院は要塞型寺院としても一見の価値あり。前川先生には四脚門のところの枡形虎口を説明していただいた。
 続いて、案下街道に出てから松竹方面へ。
 北浅川対岸には浄福寺城がある。こちらも搦手を守る要害の一つ。実は八王子城築城以前から、在地国人大石氏の詰城として、この城は案下道に睨みを利かせていた。案下道を押さえる場合、東から小田野、心源院、浄福寺城の三拠点で十分であったろう。そうした意味からも、深沢山に築かれた八王子城は小仏道を押さえる役割だったことが、はっきりわかる。浄福寺城は遺構が多く、それだけで一日かるので、今回はパス。
 松竹神社に到るまで、旧道を教えてもらう。旧道はくねくねと曲がりながら、新道と交錯しながら松竹神社まで続いていた。曲げている意味は説明不要でしょう。ここで鉢巻石垣と腰巻石垣の違いについて説明を受けた。鉢巻とは上部が石垣で下部が土塁のもの、腰巻は逆である。「腰巻というと変な想像をする人がいるかもしれませんが―」という冗談に誰も反応せず。「先生、それは大正時代の冗談すよ(笑)」と突っ込みを入れる私。この辺りは、先生が三十年前に回った時は、ただの雑木林で、馬出まで確認できたというが、今は住宅地と化している。
 松竹神社は上下二段の曲輪を持つ要塞神社である。というか、元々は搦手口を守る番所曲輪であったようだ。ここには城門があり、八王子市内のどこだかに移築され、最後は歯医者が買って、今はないとのこと。松竹神社のところで道が絞れており、確かに城門はここにあったはずである。松竹神社にはカタクリの花の栽培地があった。
(写真は心源院での説明の様子と恩方第一小前に飾られた氏照夫妻像)