八王子城搦手オフ【第二部】

 ここから奥に進むに従い、左手にそびえる大六天曲輪の尾根が近づいてくる。今回は行けなかったが、この尾根上にも多くの削平地がある。私は前川先生とともに、四年前、心源院の裏からこの尾根を登ったことがある。確かに搦手口を見下ろす場所にあり、搦手を進む敵の姿を視認できる。まさに、大手道と太鼓曲輪の関係と相通ずるものがある。やはり三十年ほど前は、この尾根の底部、西側面に多くの複雑な曲輪が確認されたという。今は造成によりほとんど煙滅してしまったが、三十年前から始めた前川先生の調査により、復元図の上では再現されている。まさに、太鼓曲輪側面(飯田氏宅の裏辺り)と同様の段状になった複雑な遺構が見える。前川先生はここを「連郭式砦遺構」とよんでいる。
 続いて、北浅川の支流である滝の沢川を隔てて(左岸)土塁が見えてくる。虎口を守るために、川を隔てて横撃できるようにしていることがわかる。さらにその裏には、膝窪と呼ばれる”勢隠し”がある。今回は見られなかったが、扇状の比較的大きな曲輪で、眼下の土塁に詰める兵士たちの駐屯地であったのかも知れない。ちなみにこうした地名は、前川先生によると、三十年前はこの辺りにはよく”きこり”を生業とする方々が多くいて、その方々が習慣的に呼び合っていた名を冠しているという。どうしても地名がない場合のみ、先生が地形から名称をつけているという。
 さらに奥に進むと二股に分かれた虎口に到達。以前はここから自然豊かな山林という感じだったが、今は違法資材置き場となっている。右を行くと滝の沢だが、そこは帰路に見ることにして、左の道を進む。すぐに左手に見えてくるのが、東沢の段状曲輪群である。削平が不十分(谷川に傾斜している)なのは、城方の突撃に加速がつくようにしているという先生の説明である。私が「それでも居住性が―」と突っ込むと、先生は「ここは普段はまったく人が詰めておらず、戦時のみ、最上部の”勢隠し”に詰めていた兵たちが逆落としに攻めてくる」とのこと。同様の傾斜地は山中城にもある。あれは普請が間に合わなかったと聞いていたが、実はこんな仕掛けを考えていたのかと驚く。すごいぞ北条氏(笑)。
 ここは上部に炭窯が残っていた。滝の沢川際の曲輪まで降りて昼食となる。
 昼食後、さらに奥に進む。この辺りは細久保谷とよばれる搦手最終拠点である。先生は搦手本営と呼んでいる。ここをさらに進むと、水汲み谷津を経て詰城に出る。私は以前に行ったことはあるが、今回はパス。本営の背後には竪堀が落としてあり、これ以上、先には進ませないぞという強い意志が感じられた。この辺りにも炭窯が点在しているが、以前は五つはっきりと残っていたものが、今ははっきりしているのは一つだけになっていた。私も四年ほど前に来た時は、もっとあった気がする。この辺りで前川先生が「平井無辺が兼続に勧めた隠し道」について説明いただいた。平井無辺の存在とこの道こそ、八王子城が一日にして落城してしまった原因となったものである。
前川先生の八王子城解説本の出版も控えているので、この説明はパスさせていただく。
 いったん道を戻り、青龍寺谷へ。自然地形か人の手の入ったものか、不確かな地形がいろいろある。青龍寺跡地は下草の刈り込みが行われていたので、以前に来た時はわからなかったそのスケール感が掴めた。でかい曲輪です。
 さらに滝の沢に回り、大型の段状曲輪を下から眺める。こちらは私も初めてである。ここを少し戻ると虎口遺構もある。私も今までその存在を知らなかった。見事な内枡形が石垣とともにあったことを確認。復元すれば形状も大きさも滝山城のものに類似している。前川先生いわく、「どうしても敵を谷に入れない」という方針が徹底されている典型的事例の一つとのこと。
(写真は、大六天の尾根と腰巻石垣)