【小笠原氏城郭群オフレポート3】林小城

 林小城は、林大城の西南にある別尾根に造られた城である。大城の東北の別尾根にある水番城(未見)とともに、林城の両翼を支える一城別郭という扱いが妥当と思われる。
 小城と大城とは、小笠原氏の居館があった大嵩崎(おおつき)集落を間に挟んでいる。東から大嵩崎集落を守る大城と対を成すように、西から来る敵を迅速に見つけ、大嵩崎集落に入れないことを目的に築かれた防御専門の城こそ、小城である。
 一般には、「大嵩崎集落を守り、詰城の大城を背後から攻められないために、別尾根にも構えを施しておく」といった目的で、大城の後に造られたと考えるのが定説となっている。
 馬念さんからコピーをいただいた書名不詳の専門書にも、「大城より規模は小さいが、中心部の縄張りは複雑になっており、大城よりも後に縄張りがなされたと思われる」とある。 
 しかし、縄張りだけからそう判断してしまうのは早計では―。
 はっきり言って、小城のある尾根は、西に向かって口を開ける大嵩崎集落の前衛を成しており、その尾根を敵に取られれば、大城の背後に回られる危険性があるのは、当時でもわかるはず。
 それならば、「小城は大城とほぼ同時期の築城と思われる。どちらが先かは定かではない。その理由としては、大嵩崎集落を守るという機能を求めるなら、小城は大城よりも位置的に重要だからである」などとしておいた方が無難だと思う。
 「縄張りが複雑だから戦国後期に造られた」という一元的な見方は、著者の知見の狭さを露呈しているとしか思えない。むしろ、大城よりは尾根上部の平坦地を広く取れないので、居住要素も兼ねた大城よりも、防御専門の先鋭的縄張りを引く必要があったのではないか。
 また笑えるのは、既出の資料で、小城も小笠原貞慶の手になるものと言っている点である。これも縄張りだけから推定しているらしいが、すでに深志に本拠を置いている時代の貞慶が、何が悲しうて、なけなしの財布をはたき、大城を守るための小城を築くのか。ここまできたら、「大丈夫か」と問いたくなる。上杉勢の後押しを受けた小笠原貞種が小県方面(山辺谷方面)から逆襲してくる可能性もあるが、それならそれで山家、桐原、大城で防げば十分なのである。
 さて、こうなると小城は古城であった可能性も捨て難い。
考えてみると、大嵩崎集落を守る、東方の山辺谷が、佐久、小県に通じてはいるものの、大軍の移動には不適な隘路となっているという前提からすると、先に小城を築いていても、一向におかしくないのである。それから後に詰城の大城を築くということも十分に考えられる。 すでに「複雑な縄張り=後の時代」という定理が崩れた今となっては、白紙の状態で敵の侵攻経路を推定し、どこから城を築くべきか考えるだけで、おのずと答えは出てくるのではないか。
 むろん、地元の伝承は小城=古城である(してやったり!)。
 小城の見所はまず石積み。鉢巻できれいに積まれている。主郭の土塁も全周しており、側背部の堀切と竪堀群も、小笠原氏系ならではの堅固さを見せている。むろん尾根低部から続く三日月型梯段も、北尾根と北西尾根に見られ、大城と同様の防御法を取ることを前提とした構えである。小城は、典型的な小笠原氏系の城である。

写真は
鉢巻石積み
本郭の土塁
竪堀

仍如件