【小笠原氏城郭群オフレポート2】林大城

 犬甘城に続いて、二曲輪の直下までクルマを入れられるので、たいへん楽な林大城へ。
 確かに、主郭群の直下まで、これだけ効率よく行けるのは、この城の大きな魅力である。この日も、われわれの他に家族連れが来ていた。
 この城は、小笠原氏の本拠である。
 そもそも小笠原氏とは―、という感じで書き始めようとしたが、そうした話は、すでに様々なホームページで取り上げられているのでやめにした。新人物往来社の「戦国人名事典」より詳しいからね。
 というわけで、一言で言うと、この城は、「松本平を臨む比高210mの尾根上に築かれた連郭式の山城」である。
 その最大の特徴は、尾根の低いところから、二曲輪直下まで狭小で変形の三日月型曲輪が梯段状に幾重にも連なっていることである。ある程度の広さはあるとはいえ、とても人が居住できるとは思えず、籠城時に食糧補給するための段々畑かと見まがうほどである。むろん、何らかの防御法や手順があることは確かだが、その手がかりはない。
 馬念さんからもらった書名不詳の書籍のコピーには、「段々に続く曲輪は尾根伝いに攻撃される場合、上方からの守備を容易にし、相手の攻撃を加えるための装置で、ここに家臣団が住まわされていたわけではない」とある。当たり前のことを当たり前に書いているだけだが、なぜ段々にすると守りやすいかは書いていない。
 それでは、この謎を「戦国の堅城」タッチで解いてみよう(笑)。
 ここからは気合いを入れて読んでね。
 おそらく曲輪とは、いかに巨大でも防御に最も効果的に関われるのは、縁の部分だけである。少なくとも曲輪の中心からは、敵が見えず、「めくら矢」しか放てない。
 つまり、城を守る場合、曲輪の縁が最も価値のある防御ラインとなる。人が住んだり、ものを保存したり、曲輪としての機能を必要としないのであれば、この縁=線を多くかつ長くした方が、城全体の抗堪力は高まる(横矢掛かりと同じ理論)。
 言い換えれば、漠然とした大曲輪一つよりも、多くの小曲輪を多重構造にした方が、防御ラインが増える(より多く引ける)。しかも攻撃ルートが絞られる尾根筋ゆえ、それがさらに有効となる。それだけでなく、狭ければ狭いほど、「小曲輪放棄→次の小曲輪へ後退→防御態勢を布く」という時間は短縮される。
 つまり、曲輪ごとに大部隊を置いて、完全に守備担当領域を分けている戦国後期大名型防御法(ゾーン・ディフェンス)ではなく、寄手に打撃を与えつつ、守備方の兵力の漸減も容認しながら尾根筋沿いに後退を重ね、最終的には、本曲輪に集結させた勝負兵力を投入し、陣前逆襲を仕掛けて、敵を追い落とすという、兵力に制限のあることを前提とした国衆型防御法を、この城は採ったのではないかと思われる。
 推定築城時期も長禄四年(1560)なので、いかに守護小笠原家でも、緊急時に傘下国衆を緊急招集かけられなかったであろうから(当時は城下集住ではなかった)、兵力寡少を前提とした縄張りとなったのであろう。
 ここまで書いただけで疲れた(笑)。
 「戦国の堅城」タッチの文章が、いいでしょ(自画自賛)。
 本曲輪は長方形で、要害山にもあい通じるいかにも守護居館タイプ。その背後は、尾根筋を多くの堀切や竪堀で見事に断ち切っている。これらの小笠原流大技小技については、別の城で詳述予定。ということで、林小城に向かう。

写真は
二曲輪から本曲輪を臨む
土塁の残る本曲輪
東尾根の三重堀切