【小笠原氏城郭群オフレポート4】山家城(やまべじょう)

 別名中入城とも呼ばれる山家城は、薄川の流れに沿い、林城と桐原城に挟まれた入山辺谷を、さらに東に進んだ北側の山間部に築かれている。
 当初は在地土豪山家氏の城として築かれ、後に、山家氏が小笠原氏に滅ぼされたため、小笠原氏の手が入っているというのが定説。
 確かに、その遺構の規模や細部の凝り方は、埴原、桐原に劣らないものがあり、それもうなずける。
 しかし翻って考えれば、「こんな山奥にこれだけの城を築くいかなる理由があったのか」という点に行き着く。そこから短絡的に考えれば、「実際は、山家氏が長年かけてせっせと造ってきた城ではないか」ということになる。しかし、ここで冷静に地図を見ると、愕然となる。
「山家氏って、いったい何で食べていたの」
 入山辺谷から松本平の出口周辺は小笠原氏と桐原氏に押さえられ、当然、そこいらの肥沃な土地は、彼らのものだったはず。ところが山家氏には、谷間の狭隘地しか領土がないのだ。それだけで、この城を築ける財力を持てるはずがない。となると、やはり山家氏時代は、限りなく短郭に近い詰城で(居館は麓の徳雲寺だという)、後に小笠原氏の大々的な手が入ったという考え方が妥当なのではないか―。
 しかし、そうなると、「なぜ、小笠原氏はこの城に、多大な労力と財力を傾けたのか」という疑問が頭をもたげる。それなら林大、林小、水番城の構えをさらに磨いた方が、いいと思うのだ。一説には、山家氏滅亡後、小笠原氏の一支流である折井氏が入ったというが、折井氏だけで、これだけの城を築けないのは論を待たない。
 まさに、いかなる理由で、誰が築いたのか謎の大城郭である。
 こうした城を城郭オーパーツと呼ぼう。
 同行した誰かが言っていたのだが、「小笠原氏はお城が好きだったのだ」ということで、自らを納得させるしかない(笑)。
 さて、この城の特徴は、四方に伸びる尾根に、これでもかとばかりに曲輪を築き、それらを堀切と竪堀で過度なばかりの防御をほどこしているところにある。まさに「身構える」という言葉がぴったりくる。特に、最高所にある本曲輪を後方の五重堀切は、ヒステリックなまでの過剰ディフェンスである。
 さらに、その先の東尾根には本曲輪以上の広さの曲輪を築き、後背からの敵の攻撃に備えている。こちらの方角からの敵は、あまり考えられないと思うのだけど―。
 とにかく堀切の大きさも尋常ではなく、また本曲輪の四囲を廻る石積み(高さ2m)も見事に完存している。まさに、戦国時代がそのままパックされた屈指の名城である。
写真は石垣や堀切など