【小笠原氏城郭群オフレポート5】光城

 山家城登攀で、かなりへたってしまったが、気を取り直して光城へ。
 実は、私はクルマの中で寝てしまったので、気づいたら着いていたという感じだった。そのため、この城がいかに高いところにあるか(海抜911m、比高360m)をまったく実感できずに、駐車場に到着してしまった。しかも、こうした場合、最も記憶が薄れてしまうのが常で、案の定、今となっては、記憶が定かではない。 
 この城は、本曲輪付近まで自動車道が通っているため、疲れ切った城攻めの最終ポイントにはもってこいである。城址公園としてよく整備されており、眺望もよろしい。
 光城の語源は、本曲輪に雷神社(古峯神社)があるからという。この神社は雨乞いのために祀られたといい、「人室」と呼ばれる東方の水場に向かって切り落とされている謎の四重竪堀とともに、この城は、水がキーとなっていることがわかる。
 さて、この城は小笠原氏とは縁がなく、海野氏の手になるものだという。「人室」付近以外は、明らかに、いかにも普通の山城なので、関東勢としては安堵した(笑)。
 城は二つの郭を中心に、防御目的の小規模な腰曲輪をちりばめ、堀切と竪堀を各所に配した典型的山城である。小笠原系と比べると、尾根の処理が甘いというか曖昧で、車道の通っている緩斜面の東側には、三段の曲輪、横堀、四重の長大な竪堀等を落として、それなりの配慮を示しているが、大手の東南尾根と同じくらい緩斜面の北尾根は一重の竪堀で、処理が甘い。駐車場のある場所なので、よくわかると思うが、漠然と尾根が続き、「おいおい大丈夫かい」という印象。
 主郭部の土塁などは(公園なので、かなり踏み固められてはいるが)、それなりに残っているので、尾根の処理を徹底すると、もっといい感じに仕上がったと思う。おそらく信玄の来襲が近づいてきた頃、急普請を施したのであろう(北からは来ないはずだから、北側が甘い)。それまでは、物見台程度のもっと単純な山城だったのではないだろうか。
写真は、見ての通り、土塁とか案内板です。