インタビューその1

本日、いよいよ『北条氏照 秀吉に挑んだ義将』が書店に並びます。
おそらく、ある程度の規模の書店であれば、今週一週間は、平積みしてくれると思います。
というわけで、さる5/16の山中城まつりの折、今回発表した二作品について、志摩守さんにインタビューしていただきました。
このインタビューは、後北条氏歴史探求会に入会している皆様には、『戦国奇譚 首』発売時に、いち早く、メルマガにてお伝えしましたが、今回は、今日と明日の二回に分けて、ブログにて公開いたします。
なお、冒頭の山中城まつり等に関する部分は、割愛させていただきますので、唐突に始まります(笑)。

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志摩「さて、最新作のお話ですが、いよいよ一年ぶりの新作ですね」
伊東「はい、まず六月に、『戦国奇譚 首』という連作短編集を講談社から出します」
志摩「すごい題名ですね。どんな作品なのですか」
伊東「一言でいうと、首をめぐっての人間ドラマかな」
志摩「一言で言わないと―」
伊東「この作品は、首をモチーフとした六編の独立した短編から成っています。それぞれに描かれるのは、首にまつわる人間の悲喜劇です。現代と同様、戦国時代も欲得にからんだ悲喜劇が毎日のように繰り返されてきました。特に武士の場合、戦で功名を挙げることが、出世や恩賞に直結していたため、その心情は切実でした。しかし戦場では、そこかしこで小戦闘が繰り広げられており、その全貌を掴むことは困難です。つまりスポーツの審判のように、大将や軍監がすべての小戦闘を検分し、公正な判定を下すなど不可能な話でした。そこに証拠の必要性が生まれました。それが首です。首は人間に一つきりしかないものですから、最も確実な証拠となったのです。しかし、首一つを得るためには、多大なる労力を要します。下手をすると、逆に首を獲られることにもなりかねません。そのリスクを承知で、武士たちは功名を求めたのです。そこには、歴史の闇に消えていった様々なドラマがあったはずです」
志摩「一言だけにしておけばよかった―」
伊東「まだ終わりじゃないですよ。むろん、そのドラマは、爽やかなものばかりとは限りません。源平時代や江戸時代のように、武士道が「人間性」に直結した価値観として止揚されていた時代ならともかく、戦国時代は何でもありの時代でした。どのような手を使っても首さえ挙げれば、功名を手にできた時代でした。力ある者にとっては、武芸の腕を磨くことが首の獲得に近づく早道でしたが、力なき者は、知恵を絞ることで、大きな功名を挙げようとしたのです。そこには武士道に反する行為もあったはずです。こうして、首を獲った者とそれを判定する側との間で、丁々発止の駆け引きが始まりました。その陰には、欲得に絡んだ様々な人間模様が渦巻いていたはずです。そうした人間模様は、命を賭けていないだけで、現代と何ら変わりありません。心のちょっとした隙から深い穴に落ち込んでしまった人々を、われわれは笑うことはできません。ニュースを見れば、汚職、痴漢、酒酔い運転などで、深い穴に落ちてしまった人間がゴロゴロいるはずです」
志摩「そうですね。私も気をつけよう」
伊東「特に、あなたは気をつけて下さい」
志摩「ということは、従来の大作群像劇路線からの脱皮と―」
伊東「そうですね。お陰さまで、どの作品も評価されていたけれど、よく誉められる言葉が『よく調べたね』なんですよね。デビュー作の『戦国関東血風録』なんか、『素晴らしい! 下山治久先生の『小田原合戦』(角川選書)とまったく同じだ!』という誉め言葉とも皮肉とも取れないお言葉を読者の一人から頂戴しました(笑)。こうした誉め言葉は、最初は嬉しかったけれど、みんなに言われているうちに、歴史研究家みたいに思われていることに気づいたのです」
志摩「どの作品も布石と伏線打ちまくって、複雑な構成を取っているのにね」
伊東「そうなんです。実際は、従来の歴史小説にない巧妙に張り巡らせた伏線と布石をうまく使った群像劇ばかりなのですが、読者の方々からは、『よく調べたな』という感想が最も多かったのです。どこまでが史実で、どこからが物語なのか判別がつきにくいので、そうした感想になってしまうのでしょうが、私としては不本意でした。そこで、自らの守備範囲が広いところを見せようと、戦国歴史小説という限定されたジャンルの中で、ストーリーテラーの本質を、読者の方々に知っていただきたかったのです。そのためには、「ショットガンの一撃」である短編が最も有効です。しかも、時代、テーマ、モチーフ(この場合は首)などで、出来る限り自らを縛って、そうした中でも、いくらでも「ショットガンの一撃」が放てることを証明しようとしたのです。つまり、がんじがらめに縛られた上で、水槽の中から脱出するマジックショーの縄抜けのようなものです」
志摩「マジックショーか、すごい喩えですね」
伊東「縛りが強いほど、いい発想が浮かぶのですよ」
志摩「何かと相通ずるものがありますね」
伊東「いや、通じていません。けっして(笑)」
志摩「いずれにしても、溺れてしまうリスクがあったにもかかわらず、その勝負に勝ったということですね」
伊東「講談社がハードカバーで出すと言ってくれた時点で、勝ちは勝ちなのですが、それを判定するのは、読者の皆様です。なんて恰好いいこと言ってみたりして(笑)」
志摩「何気にしらけたこと言いますよね」
伊東「話を先に進めて下さい」
志摩「それでは、本書を執筆するにあたり、苦労した点はどんなところですか」
伊東「やはり短編の命は、「ショットガンの一撃」ですからね。読者の想定内となってしまってはいけませんよね。中には、露骨に誘導していく作品もありますが、それは短編ですから、無駄な描写を省かねばならず、あえて誘導しているのです」
志摩「言い訳じみてますね」
伊東「それが小説というものです」
志摩「どこかで聞いた言い回しですね」
伊東「『武田家滅亡』における堯覚のセリフ、「それが説法というものだ」ですね」
志摩「それはどうでもいいのですが、苦労なされた点はそれだけですか」
伊東「私の憧れは「刑事コロンボ」なのです。特に「二枚のドガの絵」のような鮮やかな幕切れのものを書いてみたかった。最も苦労したのは、各編それぞれに、いかにインパクトのある幕切れを用意するかと同時に、欲の頚木からは逃れられない人間の哀しさを、文学として表現していくところでした」
志摩「なるほど、その二点を両立させるのは、並大抵のことではありませんよね」
伊東「そうなんです。エンタと文学性の両立こそ、作家が願って已まないことなのです」
志摩「それを成し遂げたのですね」
伊東「現在、自分の満足するレベルでは成し遂げましたね。しかし、これがゴールではありません」
志摩「丁度、未来の話になったところで、次回作についてお伺いしましょう」

(次回に続く)