歴史小説のレゾンデートル


歴史小説に限らずですが、昨今の小説は、「存在意義(レゾンデートル)」などおかまいなしに、ただ読者を楽しませることだけを念頭に置いて書かれているものばかりです。先日も、某大手出版の方とお話したのですが、「今はジャンルを問わず、面白ければいい」、「面白くてためになるのが本というものだが、最近は面白さだけが求められている」とおっしゃっていました。つまり、「何が何でも面白い」ものでないと売れない時代が来たのです。
しかし、作家たちが「面白い」だけの小説を競い合って書くことにより、失われていくものがいかに多いことか―。
私はそれを憂えています。そう言うと、必ず「面白ければいいじゃん」と開き直る人がいます。確かに小説に対する期待値がその程度のものなら、それもいいでしょう。しかし、小説とはそういうものではありません。歴史小説を例にとっても、「テーマ」、「基調低音」、「歴史背景の叙述」、「緻密な心情描写」、「戦略策定プロセス」、「キャラの作りこみ」、「教訓」など、必須要件が山ほどあります。それらの要素をないがしろにしつつ、アクションだけ立て続けに書き綴っても、どんな意味があるのでしょうか。そんなものはハリウッド映画だけでたくさんです。
私は「面白い」小説が書きたいと、常々、思っています。しかし、上記のような要素をないがしろにしてまで、書きたくはありません。言い換えれば、「上記の要素を取り入れた上で、それでも面白い」と言わせるものを書いていきたいのです。そうしたチャレンジがあるからこそ、作家も読者も成長するのです。極端な言い方をすれば、「一行あたりの漢字量は最大だが、寝る間も惜しむほど面白い」というようなチャレンジが、作家には必要なのです。それを放棄した作家が大半な昨今、読者のレベルも逆落としに落ちていくのは、致し方ないことかも知れません。
読者を軽視し、読者のレベルを低く低く設定する書き方をしている作家ほど飽きられやすく、やがて淘汰されていくことは自明の理です。次から次に現れるハードルを乗り越えようとせずに、読者におもねり、安易なものばかり書いて目先の金だけ稼ぎたい作家と版元がいる限り、読者は永遠に成熟せず、やがて出版業界全体は立ち枯れていくでしょう。映画、テレビ業界と同じように。
「枯るる樹に また花の木を植えそえて もとの都に なしてこそみめ」(早雲庵宗瑞)
今は鶴岡八幡宮再建を目指した早雲公と同じ気持ちです。
司馬先生や藤沢先生が作り上げてきた歴史小説の伝統を守り続けたいという一念で、これからも書き続けていくつもりです。
皆様、ご教示、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
(写真は「武田家滅亡」)

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