映画革命宣言!


2006年の年間興行成績で、実に21年ぶりに邦画が洋画の興行収入シェアを上回った。2007年も絶好調は維持された。これにより、日本映画界は未曾有の好景気に沸いた。まさに百花繚乱のごとく作品が制作され、次々とDVD化されていった。邦画界は、まさにわが世の春を謳歌しているのである。
日本人として、これは喜ぶべきことなのだろうか。
かつての映画は単に「面白いもの」、「感動できる」ものでなく、そこから学べるものが多々あった。「学べる」というと、教訓じみた意味にとられがちだが、もっと「生きる上で影響を与えてくれるもの」と捉えて欲しい。それが観客を成熟させ、製作側はさらなる「進化」を求められていった。ところが今はどうだろうか。製作側は利潤を追い求めるばかり、目先の利益にこだわった子供だましの作品を出し続け、観客を育てることを怠るようになってきた。その付けが回り、邦画は、内容的には「停滞」ないしは「退化」の一途をたどっている。観客のレベルも劇的に下がっていった。はっきりいって、まっとうな大人が見るべき映画はほとんどないのだから、観客の責に帰することは何一つないのだが…。
テレビと変わらないお手軽な演出、芸能プロダクションに言いなりの配役、布石や伏線の打てない脚本、しかも、お決まりのラスト近くのお涙頂戴シーンというワンパターンぶりは、ハリウッド映画のアクション・マニエリズムに匹敵する怖さがある。いつから映画は「泣ける映画がいい映画」で、「泣けない映画はだめな映画」となったのであろうか。
映画の陥ったジレンマの原因は明白である。映画界を取り巻くすべてが産業化し、そのパイプラインの上に乗った安易な作品を量産することが、最も安全に収益を上げるということに気づいたからである。つまり、映画をビジネスとしか考えない輩が主権を握ったのである。
一方、芸術や文学に近い映画群はどうだろうか。こちらも惨状を呈している。私にとり、最近の若者の作る映画はまったくわからない。非常に身近な内省的な世界ばかりを描いていて、何が言いたいのかさっぱりわからないのだ。「その曖昧さが映画である」なんていう逃げ口上は聞きたくない。昔の巨匠たちの作品に、曖昧なものはなかったはずである。これも一重にPFF(ビア・フィルム・フェスティバル)という映画人の登竜門たるべきイベントが受賞作の基準を定型化しつつあることに気づかず、80年代から同タイプの監督や映画人を輩出し続けていることに原因がある。すでにPFFはその役割を終えているのだ。
 こうして、内容的には惨状を呈している邦画業界だが、不思議と興行成績はいいのである。その理由は簡単である。テレビ業界30年の愚民化政策が結実したということなのだ。 
「民衆には何も考えさせず、ただ笑わせて、泣かせればいい」というのがこの政策の底流にある。
しかしながら、崩壊は目前に迫っている。
ヒット漫画を原作とした作品、テレビドラマの延長線上の作品、リメイク作品、若者の内省映画などを量産し続ければ、次第に観客にそっぽを向かれるのは必定である。後は、誰がババを引かないようにするかの勝負である。
 このままでは映画という芸術ジャンル自体が終わってしまう。それを終わらせないようにするにはどうしたらいいのであろうか。答えは一つである。
 時代の要求に適ったいい映画を作り、新しいムーブメントを起こせばいいのである。
革新は、テレビ、芸能プロダクション、PFF(インディーズ勢)などの守旧勢力とは全く縁のない場所から生まれる。
かつてハリウッドではドリス・デイロック・ハドソンに代表されるラブコメが主流を占めていた。1969年のある日まで、それが映画というものだった。それが、突然、覆った。『イージー・ライダー』が公開されたのだ。
同じことが日本で起こらないとは限らない。
それは目前に迫っているかもしれないのだ。
(写真は「イージーライダー」)

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