八王子オフレポート【第一部】

 二月二十一日、前夜までの悪天候が嘘のように、この日の空は晴れ渡っていた。
 今日は、私が初めてガイドを務めるオフ会である。参加者は三十三名ということで、経験したことのない規模である。幹事の心労が思いやられる。
 前夜は21:00に寝たので、3:30に起床。予習しつつ、6:00頃に家を出て、7:30頃に初沢城に着いた。
 初沢城はオフ会の前の朝駆けである。ちなみに、馬念さんとノリ憎さんは、私の後に朝駆けしたとのことで、入れ違いである。
 この城は行こう行こうと思いつつ、行けていなかった城の一つなので、やっと念願が叶った。しかし、行かなかったのは、遺構の魅力に乏しいからであり、むろん、遺構の期待はそれほどでもなかった。
 今回の目的は、新作『北条氏照』で、間宮綱信に「小仏道の押さえなら、なぜ、廿里(とどり)か初沢の地に新城を築かないのか」と問わせるシーンがあるのだが、それに価する城かどうかをチェックするためである。つまり、間宮綱信は築城家なので(子孫の家から多くの築城文書が出ている、氏照に安土城を見に行かされている)、選地において、アマチュアのようなセリフを吐かせないためである。
 そこで、チェックポイントとして―。
八王子城に匹敵する大城郭を築くだけの面積はあるか
② 敵に攻められ難い城か(稜線は急峻か)
③ 城下は広く取れそうか
④ 氏照クンたちはこの城を使ったのか、使ったとしたら何の目的で使ったのか?
以上を見ていくつもりであった。

 さて、この城の歴史については、インターネットで、皆、同じようなことを書いているので割愛するが、要は、「鎌倉期(椚田氏、長井氏)からあった旧式の城」というところである。そのため、どの程度、北条氏時代に手を加えているかを調べるのも興味深い。
 まず、山麓部の館跡らしき場所は、随分前に発掘調査もせずに、みころも霊園という巨大な黄金塔が立つ一種の霊場に変えられている。 現地形は里山谷戸が想像されるが、北向きに開いているので、ここが椚田氏や長井氏の館跡だったかどうかは微妙である。いずれにしても、遺構は中腹に東北を向けて造られている二段の曲輪から始まり(標高210m)、途中に北西を向いている二段の馬蹄段がある(標高250m)。山頂の主郭部(標高294m)は、四つの郭から構成されているが、土塁や空堀等は見当たらず、わずかに土橋付の堀切や竪堀がある程度である。
 『日本城郭大系』では、「郭は実に有効な組み合わせを見せており、単なる狼煙台としての城郭ではなく、籠城用城郭の色彩が濃い」とのことだが、籠城といっても、室町期ならいざ知らず、戦国期では、こんな何の小細工もない城では手も足も出ないはず。
 まず①だが、八王子城に匹敵する大城郭を造るだけの面積には乏しく、②の籠城用の城としてどうかという点でも、なだらかな稜線や自然の緩傾斜地が続くので、まったく無理である。③のみ、西面の多摩丘陵が終わり、東面に川原宿が続くので、合格ではあるが―。
 また、④の戦国期に使われていたのかどうかだが、使っていないはず。せいぜい物見番を地元から出させるということはしたかも知れないが、西方の小仏道の監視は廿里砦が担っているので、まったく不要という考え方もできる。西南方には津久井城があるし、東南方は北条家にとって安全地帯だし―。
 唯一、中段の馬蹄段だけが、八王子城にも見られるような遺構だが、二段だけでは、自然地形を生かした遺構に過ぎないとも言える。
 いずれにしても、片倉城のように明確に北条氏の意志と目的が感じられる城ではなく、旧式の地域領主の詰城の域を出ていないと言い切ってしまおう。
 写真は①初沢城遠景、②初沢城の中腹曲輪か見た廿里砦と川原宿方面、③主郭部である。
 さて、次はいよいよ八王子城についての報告である。

仍如件