八王子オフレポート【第二部】

10:00に集合した参加者は三班に分かれて出発した。私は第一班を率いて、10:20頃、「霊園前」に到着。まず、大手門と推定されている御霊谷門の辺りを説明。

【ポイント1】
八王子城の大手門は上ノ山の南麓の御霊谷門と推定されている。バス道と城山川の交錯点(バス停やや手前)には、赤門堂という屋号が残り、ここが大城戸口と推定されている。つまり、そこが御霊谷門らしい。その屋号から、御霊谷門は朱塗りの大門だったらしく、御霊谷川の左岸に、食い違い虎口、内枡形などを伴いつつ、堂々と鎮座していたものと想定される。門を守るように赤門堂、上ノ山、番屋曲輪が連なっていた姿は圧巻であったろう。

続いて、バス道の反対側に出て多摩霊園を見学。ここからは霊園を隔てた東側の梶原谷戸が臨める。氏照ばかりが有名だが、実はこの地は、鎌倉時代はかの梶原景時の所領だった。また、ここからの深沢山の風景は絶景であるだけでなく、上ノ山から太鼓曲輪まで、全体像が掴みやすいので、ここからお連れするといいという前川先生のアドバイスがあった。ここからだと、上ノ山の北側が中央高速で煙滅しているのがはっきりとわかる上、城域の広大さも掴みやすい。
やっと集合場所の宗閑寺に到着、史料配布や自己紹介をしているうちに時間は過ぎていく。やや焦りつつ、飯田さんのお宅に声をかけてから、その背後の中宿門を太鼓曲輪から守る何段かの削平地を見学。ここは上にも曲輪があるが、時間もないので、今回は下の段だけの見学となった。続いて、横地土手を入口部分だけ見学。

【ポイント2】
 八王子城の大手道は上の道と下の道に分かれる。大手道として下の道を造った後に上の道を造り、大手道としたらしい。上の道は現在の舗装道路ではなく、太鼓曲輪北側中腹を縫っていた。幅は八メートルもあり、戦前までは生活道路として使われていたという。この道は大八車も通れ、戦前は駄菓子の引き車を引いたおばさんが、この辺りまで売りに来ていたという話を、以前に飯田さんのお爺さんから、直接、聞いた(椚さんの本にも出ています)。一方、下の道は城山川左岸沿いとなる。この道は、下級家臣の登城道兼物資の搬入口と推定されている。つまり、太鼓曲輪は上からこの二つの道を横撃できるように東から西に広がっている。

【ポイント3】
 宗閑寺の折れ、横地土手、飯田さん裏の曲輪群により、ここから西が八王子城の中核部分であり、ここで敵を防ぐという構想があったことは明白である。この辺りに中宿門があったと推定され、ここで馬場但馬守という武将が守兵もろとも玉砕したとのこと。大手方面の戦いでは、横山口で多少の小競り合いがあったものの、大規模な戦闘はここから始まったとされる。乳白色の霧の中、突如として湧き上がった喊声に、山頂曲輪の武将たちは何を思ったのだろうか。

【ポイント4】
 この辺りは城山川の流れが不自然に曲がっている。これは「曲げられた」という説が有力。つまり、川の流れを屈曲させることにより、守備方は守備面を広く取れ、攻撃方は姿を晒す時間が長くなるという仕掛けである。直線だと、横矢が掛かるだけで、ダッシュされると突っ切れるが、曲げることで、ダッシュを防ぎ、確実に獲物を捕らえるというキルゾーンの基本である。城造りは「面」と「時間」の捉え方である。城造りというのは、実に奥が深い―。

 続いて、近藤曲輪を横目で見つつ、管理事務所前で休憩後、御主殿方面へ出発した。
 以前、駐車場さえなかった八王子城だが、百名城のブームで、三十台は入れる駐車場ができていた。まさに隔世の感がある。
 山麓曲輪群は、東から近藤、山下、あしだ曲輪の順に設けられている。近藤曲輪はかつて造形大学があったため、破壊されており、見るべきものはない。管理事務所から奥に入った場所に山下曲輪があるが、こちらには見事な土塁が残っている。
 城山川を右岸に渡り、いよいよ大手門広場である。わかりにくいが、外郭のメインの入口を横山口、内郭の入口が御霊谷門、そして、城の中核部への入口がこの大手門である。
 大手門広場はかなり広い。東端に土塁があり、その裏に掻き下ろしがある。これは道を狭める目的で、あえて削られている。そこから奥に上の道が続く。
 大手門広場からいよいよ引橋へ。曳橋とも書くが、これだけ巨大なものをいかに引くのかずっとわからなかったが、どうやら、中の橋板だけを引き上げるか、半分だけ引き上げたという論考を見つけた。なるほど―。
 この橋は、実は斜めに掛かっていた。つまり、横矢が掛けやすいようにしてあったらしいのだ。ところが、橋台を見つける前に再建してしまったので、今の位置になったという。別の説では、わかっていたけど、橋台の跡を破壊しないために、あえて横につけたという。さて、どっちが真実なのでしょう。
 そして、九十度の屈曲が二度続く、見事な石造りの虎口である。これが八王子城の見せ場となる。この時代の石垣は、技術が未発達で崩れやすいため、最も下側の石を少し前に出していた。これが顎石である。
 虎口の途中にある四脚門の柱跡やこげ跡などを見つつ登る。この石段は台形を逆さにしたように、上側が広く、下側が狭い。これは、言うまでもなく、守備方に有利に造られているからである。


【ポイント5】
引橋を斜めに掛けて、横矢を掛けやすくする
【ポイント6】
顎石で石垣を崩れにくくしている
【ポイント7】
守備方が守りやすくするために、虎口上部が1mばかり広く取られている。横に広がって突入してくる人数が六人であれば、守備方は八人を配置できる。

ということで、いよいよ御主殿に入る。

仍如件