八王子オフレポート【第三部】

冠木門をくぐり、御主殿曲輪へ入る。右手傍らには、下の道から続いてきた下級家臣の登城道兼物資の搬入口<勝手門>がある。花かご沢を渡る小さな橋も架かっていたらしい。ここは御主殿曲輪守備の要諦であり、二階櫓クラスの構造物が設けられていたらしい。また、発掘の結果、対岸から矢の届く手前側には、櫓跡以外の建物がなく、氏照の的場や広場となっていたらしい。これは延焼を防ぐためである。続いて、御主殿から下り、滝を見学。この滝は以前より、霊現象で名高い場所である。しかし、ここで死んだ男も女も覚悟ができている者ばかりで、そんな女々しい奴は一人もいないはず。それが戦国に生きる者の掟である。

【ポイント8】
 城山川の左岸道は後に林野庁がつけたものであり、当時はなかった。つまり、水くみ堤を設けて、御主殿から水を汲んでいた模様。水くみ堤は、林野庁のつけた道路のため、切り崩されていて、橋台のように見えるから要注意

 いったん御主殿に戻り、今度は奥殿に向かう。ここは、趣味人の氏照クンらしく、蔵という説もあるが、氏照クンのプライベートエリアという説が有力である。つまり、御主殿曲輪は、<ハレ>=御主殿と<ケ>=奥殿という設計になっていた模様。その最西端を示す縦石垣を見学後、いったん御主殿に戻り、西北沢石垣群に入る。
 少し登ると、すぐに最下段の石垣が見えてくる。合わせて四群ある。こちらの石垣の状況は以前と変わらない。顎石がはっきりとわかる。この石垣群こそ、八王子城のハイライトの一つである。詳細のスペックが知りたい方は、椚国男先生の「戦国の終わりを告げた城」を購入いただきたい。すでに廃刊なので古書となるが、古書でも定価より安い今がチャンスである。
 かなり厳しい登り道を踏破し、山王台に到着。山王台こそ、やや北にある柵門台とともに、戦国時代の終焉を飾る激戦を展開した場所である。前川實先生の論考では、前田利家上杉景勝真田昌幸隊は、ここで八時間ほど釘付けにされていたという。
 山王台を左手に入り、またしても厳しい道を登り、中の曲輪に到着。ここは、八王子合戦の最後の激戦地となった場所である。かの中山勘解由が家族を殺し、敵中に突入して討死した場所でもある。ここで昼食。
 最近、八王子市役所関連の研究家から、落城時に逃げたのは横地監物ではなく勘解由であったとの論考が出されたらしいが、私はどうかと思う。壮絶な討死を遂げたからこそ、家康は勘解由の子供たちを召抱えたのであり、また、それまでにもいくつか勘解由の武勇を示した古文書がある。桜井武兵衛家に伝わる筑波山攻めのものや、狩野一庵とともに三方ヶ原に手伝い戦で出向いたものなどである。ところが監物のものはない。こうした状況証拠から、監物はどちらかというと文官であり(廿里合戦の主将だが)、勘解由は典型的武官だったと思われる。
 さて、話は逸れたが、山頂曲輪群を後にして、炊井(かしい)を通過し、馬(こま)冷やし場へ。炊井の水はもう飲めないと聞いていたが、見た目は透明だった。トンネル工事が終わったからかもしれない。馬冷やし場の見事な堀切を見学後、詰の城へと向かう。

【ポイント9】
 当初、八王子城は西方の大敵武田家に対するものとして築かれた。そのため、馬冷やし場の堀切には、ここで絶対に防衛するという強い意志が感じられる。ここが破られれば落城必至だからである。しかし、ここから西の遺構は少ない。確かに詰の城など、見事な石垣が回してあるし、途中の道にも、投石用かこれから積むのかわからない石がごろごろしている。しかし、なぜかテクニカルな技巧がほとんど施されておらず、東側に比して寂しい気がする。つまり、最初のプランでは西側強化が命題であったが、武田家が滅んでしまった後は、安土城の情報も入ったりして、<見せる>要素が強まったプランに変更されたのではないか。むろん、東から迫り来る敵に備えるため、そちらの防御が優先されたことも事実である。城造りとは状況変化に対応していくことなのだ。
 ということで、第四部へ。写真は、殿の道の石垣です。

仍如件