八王子城搦手オフ【追記】

 今回の搦手オフにより、以下のことが見えてきた。
 深沢山は高尾駅側からは独立峰に見えるが、北の搦手に向かって尾根が連なっている。つまり、心源院砦が破られれば、搦手の尾根沿いに敵の侵入を許す可能性がある。また、幾筋もの谷が深く切れ込んでいるため、そこからも敵の侵入を許しやすい(結局、そうなった)。
それでも、築城を開始した元亀年間当初は、小田野城、心源院、浄福寺城により、「搦手の谷に入り込まれることはあるまい」と高をくくっていたのであろう。当時の仮想敵は、案下街道を東進してくる武田信玄率いる甲州勢である(大手なら小仏道)。最大兵力二万としても、火力はそれほどでもなく、浄福寺城だけでも十分に防げる。しかも元亀年間の甲州勢では、いかに戦国最強とはいえ、兵力的に大手と搦手同時攻撃は限りなく不可能であるので、どちらかの攻め口に守備兵力を集中できる。
 しかし、秀吉の大軍の来襲が予想された天正十八年には、状況は一変していた。敵との兵力差は圧倒的で、しかも装備にも練度にもかなりの差がある五万の軍勢が、押し寄せてくるのだ(城方は、主力四千が小田原に連れて行かれたため、二千の専業武士と三千余の農兵と修験者のみ。特に搦手は修験者主体)。
 城方は搦手防衛線を徹底的に堅固にせねばならなくなった。その結果、搦手に針鼠のような曲輪群が築かれた。しかし、信玄に攻められた小笠原氏の林城、信長に攻められた六角氏の観音寺城の例を引くまでもなく、どれほど巧緻な縄張りを持っていても、守備兵力を念頭に置かない縄張りは、守備にめりはりが利かせられず、結局、意味をなさないものになる。当時の築城担当者が、それをどれほど意識していたかはわからないが、現実として、捨て曲輪だらけになってしまったのである。
 しかし逆に考えれば、守備兵力の想定云々は別にしても、これだけ手を入れなければ、敵の谷への侵入を許してしまい、到底、守り切れない城だったのかもしれない。つまり、先に「縄張りありき」という考え方だったのかも知れない。または守備兵力の一点集中から順次撤退という構想の下に造られたのかも知れない(兵力漸減の法則により、落城覚悟の戦術だが)。
 だとすると、ここに築城したこと自体が間違いだったのかも知れない。
(写真は心源院の曲輪と浄福寺城)