松本平の小笠原氏城郭群攻城記

日程
4/11(土)〜12(日)

訪問した城
4/11 犬甘(いぬかい)、林大、林小、山家(やまべ)
4/12 埴原(はいばら)、桐原、平瀬山、武居

ブロローグ
 遂に念願の松本平に行くことができました。
 まずは、このオフ会を主催していただいた小口様に大感謝。
 さて、以前より城仲間から「松本平だけは行くべき」と教えられていただけに、今回のオフ会はたいへんいい機会でした。もちろん、噂通りのすごい城が目白押しで、感激の連続でした。

 今回の見学目標
1. それぞれの城の位置的役割は何か
2. 成立基盤が脆弱といわれる小笠原氏に、なぜ、これだけすごい城  郭群が造れたのか
3. 信玄は松本平制圧後、なぜ平城の深志を本拠としたか
4. 小笠原流ないしはこの地域特有の築城術の特徴は何か
5. 地域土豪小笠原長時、武田家、小笠原貞慶等、誰が手を加えた  のか

1. それぞれの城の位置的役割は何か
当初から、小笠原氏が松本平全体の防御を考えて、グランドデザイン(城の配置)を決めていったわけではなく、それぞれの城には、それぞれの地域領主がおり、彼らがそれぞれの都合で、同時並行的に城を造った後、小笠原氏の権力が強化され、縄張りに共通性が生まれていったのでしょう。しかし、その過程で、廃棄された城が皆無なのは謎です。地勢的に山家城は要らないはずですが、どう考えても、小笠原氏流に共通した技術を導入しています。

2. 成立基盤が脆弱といわれる小笠原氏だが、なぜすごい城郭群が造れたのか
城の原型は、各地の土豪たちが長い年月をかけてせっせと築城してきものをベースとしているためではないでしょうか。
更地から築城を始める事例が極めて少ない北条氏の例を挙げるまでなく、築城は、更地から始めるのが、最もたいへんです。そのたいへんな部分は、それぞれの地に蟠踞する土豪が担い、修築を小笠原氏が担ったのではないでしょうか。
時を経るうちに、松本平の権力が小笠原氏に収斂されていったので、後世から見ると、「小笠原氏はすごい」ということになりますが、実際、小笠原氏のしたことは「リフォーム」。いわゆる増築と改築ですね。また、増築部分がどこだとか、大半が増築だとかいう議論もありますが、小笠原氏の手が入った部分は、さほどでもない気がします。
また、縄張りに共通性があるのは、小笠原氏というよりも、地域性として見た方がいいのではないでしょうか。土豪たちは敵対していたわけではなく、小笠原氏を盟主として仰ぎつつ、共存していたわけですから、技術者や作業員の重複はあったと見る方がしぜんでしょう。

3. 信玄は松本平制圧後、なぜ平城の深志を本拠としたか
武田家の侵攻開始から安定的統治開始までの期間がたいへん短いため(1548-50)、松本平は兵站基地としての役割を担うだけになってしまったから。その点から言うと、武田家は、陣城としての村井城と煙滅してしまった深志城の修築に財力を注いだと思われ、その他の城にはほとんど手をつけていないと推定できます。「信玄は、経済の発展、鉄砲の発達等の新しい時代を見据えて平城を本拠にした」といった論は、残念ながら無理があるのではないかな。

4. 小笠原流ないしはこの地域特有の築城術の特徴は何か

・小型の馬蹄形段曲輪群(尾根の低部から階段状に小曲輪を並べる)
林大小城、桐原、埴原等で見られる遺構です。八王子城の金子曲輪直下にも見られる遺構(馬蹄形梯段)ですが、どういう方法や手順で守ったのでしょうかね。興味深いところです。

・後ろ堅固の巨大堀切
これは小笠原氏だけのものではありませんが、五重(山家城)まであるその徹底ぶりには驚きます。特に、埴原、桐原城等、背後が尾根続きの斜面だと、パニックを起こしたように縦横に掘り切る様は爽快としか言えません。

・本曲輪背部の三日月形土塁
これは狩野城、矢崎狩野城、白水城など南伊豆の城にも見られる遺構です。本曲輪の背後を守るのは当然と言ってしまえばそれまでですが、その有効性が証明されます。

・畝状竪堀
武居城に代表される畝状竪堀ですが、越後の大葉沢城を思い出します。しかし、埴原城南尾根の六重竪堀の東面が、下草苅りのためか、完全破壊されていたのには驚きました。いくらなんでも、こんなことが今でも繰り返されているのですね。

5. 地域土豪小笠原長時、武田家、小笠原貞慶等、誰が手を加えたか
偉い先生方の定説によると、ほとんどの城に大規模な修築を加えたのは、小笠原貞慶ということになっています。すべての歴史学に共通していることですが、大規模なものほど、手の込んだものほど、時代の後半に持って行きたがるのが常です(例 : 20世紀初頭のピラミッド学)。さらに、先生方は専門分野が細分化されているので、縄張り技術だけから時代認定しがちという問題もあります。
さて、それでは長慶君にそれだけの時間、権力、財力があったかどうかですね。
 まず時間的余裕についてですが、詳細は他の資料をあたってほしいのですが、徳川傘下での実質的な統治開始から石川数正と手を携えて秀吉の許に出奔するまで、実質二年半(1582-85)。その間に、先に深志入りを果たした叔父の小笠原貞種を逐い、信長に安曇、筑摩二郡を拝領していた木曾義昌ともたびたび戦っています。掌握した権力が、父の長時時代よりも小さいのは当然なので、何とか結束させた土豪たちを戦に駆り立てるのがやっとなのではないでしょうか。小笠原家が長年蓄積したという財力だって、信玄や義昌に強奪されているはずで、限りなくゼロのはず。
長慶君はよくがんばった。しかし、だからといって彼がこれだけの普請を、各城に同時並行的にほどこしたとは思えません。傍証として、この時期、長慶は安堵状、宛行状、寄進状を乱発していますが、管見ながら城郭修築に関しては見当たらないのです。
 単なる兵站基地とした松本平に、手を加えているはずもない武田家も同様。
 結論から言うと、長年かけて地域土豪たちが造ってきたものを、他地域との戦乱の気配が高まりつつあった長棟期と、実際に身構えねばならなかった長時期に手を加えたと見るのが妥当でしょう。特に、埴原城の搦手遺構などは、塩尻合戦から松本平放棄まで短期間に為されたものという気がします。

写真は、埴原城の麓にある徳雲寺のしだれ桜、桐原城近景、林大城遠景