【小笠原氏城郭群オフレポート8】平瀬城

一泊二日の小笠原氏城郭群めぐりも、いよいよ大詰めを迎えた。しかし、かなりきつい傾斜の登攀の連続とひどい花粉症で、自分にとり、過去の攻城戦歴の中でも、最もきつい一日となった。

まずは、この城の位置関係を見ておこう。
西に流れる犀川とJR篠ノ井線の線路を圧迫するように山塊が突出している地点に、この城は築かれている。この山塊を南に下ると、その突端に犬甘城がある。ちなみに、深志城から見ると、北北西6キロの地点にある平瀬城は、松本平の西を守る犬甘城、北を守る伊深城とともに、北西の守りを委ねられている城である。
推定だが、それぞれの城は、同じ山塊にあり、背後の尾根伝いに連携が図れるようになっていたのではないか。おそらく、小笠原氏とその家臣団は、この山塊自体をうまく使って、北から西にかけての守りを、有機的に結合させていこうとしたのであろう。
この城は、北本城、南支城という分け方がされている。つまり、堀や曲輪などの人工構築物での連結がなされていないが、相互に連携して防御にあたる前提で造られていることから、「一城別郭」という分類に入るのだろう。
今回は、日没も迫り、体力的にも限界なので、北本城だけの攻略となった。
 本城の特徴として最も大きな点は、本曲輪が犀川を臨む尾根の先端部分に築かれている点である。現地掲示板によると、標高716m、比高140mの切り立った崖に、北南西の三方が遮られているため、切断を要するのは東方だけである。しかも、尾根先端に主郭部があるというハンディキャップがあり(犀川以西を監視する城なので致し方ない)、東方に続く尾根は、主郭部より高い。そのため、尾根沿いに800mにわたり、曲輪や堀切などの防御が、延々と施されているという(『戦国武田の城』)。われわれはそこまで行けていないので、引用でゴメン。
この城は武田勢に攻められ、小笠原氏の家臣平瀬氏はじめ204名が全滅したと伝わるが、武田勢はほぼ間違いなく東方の高地から攻め落としてきたに違いなく、その状況証拠として、東方の守りは堅固で、武田家の手により、堀切や竪堀が縦横無尽に穿たれている(『戦国武田の城』)。これは、自らが攻め取った方法を、逆に繰り返されるのを嫌がった証左であろう。
とはいうものの、今回の城の中では、珍しく下草が刈られておらず、縄張り図にあるようなイメージは湧きにくかったが―。
もう一点、南支城の必要性について付け加える。
登攀路は北本城、南支城の間の沢沿いである。沢の奥まで行ってから、登攀を開始するのだが、それほどの難路ではない。よって、北本城の南斜面には、いくつかの曲輪が配置されている。同時に、南支城からも攻撃できるような道が付けられている。つまり、南支城は別尾根を取られて背後から攻められる危険性よりも、本城の南斜面から攻め上られることを嫌がって造られたのではないかと思う。大手道もこのルートだったらしい。
いずれにしても、武田勢はどこからかこの山塊に上り、東方の背後から攻めた可能性が高いので、この大手からの攻撃路が、使われたかどうかは不明である。
この城からの眺望は絶景とのことだったが、われわれが行った時は、春霞がかかり、松本平から安曇野の眺めはイマイチだった。それでも、のどかな田園風景には、心をなごませてくれるものがあった。やっぱ、田舎っていいな―。
いずれにしても、実際に合戦が行われた城というのは、なかった城とは、どこか雰囲気が違う。芸術的縄張りを誇る城にはない、無骨で恥も外聞もない実戦的なたたずまいが、この城には漂っている。
原城が美しいフォルムの高尾型重巡だとしたら、この城は、飢狼のように太平洋を駆け巡った長良型軽巡であろう(艦橋が前寄りというのも似ているし)。
ということで、このツアーも残り一城を残すばかりとなった。
写真は、案内板、本曲輪、曲輪突端から臨む松本平と犀川