【小笠原氏城郭群オフレポート9】武居城

いよいよ驚異と感動の二日間も最後の一城を残すばかりとなった。
 平瀬北本城の見学終了後、本来であれば、平瀬南支城に行くべきであるが、いったん平地に下りてから再登攀というのは、体力的に無理があり、全員合意の下で、「もっと楽な城」に向かうことになった。実は、これが拾い物であった。
 ちなみに、松本平の諸城で、クルマで遺構のすぐ近くまで行けるのは、犬甘、林大、光、武居がある。これらの「楽な城」をうまく組み合わせることがコツである。そうしないと、体力的に厳しくなる。
 今回、回った城の中でも、あまり小笠原氏と関わりのない城が、光城とこの武居城である。光城は海野氏系、最後の訪城となった武居城は三村氏の本拠城である。この城は、別名洗馬城ともよばれているが、位置を示すためにも、その方がしっくりくる。 
 ちなみに、信玄の侵攻前、この付近は、北から見ると、小笠原氏、三村氏、奈良井氏、そして鳥居峠以南は木曾氏が押さえていた。この武居城は、その三村氏の十六世紀初頭までの本拠であったという(三村氏の悲劇については別に調べてほしい)。
 さて、この城だが、標高871mの位置にあるが、比高は65mという尾根の突端に築かれており、それほどの要害ではない。となると、いかに縄張りに趣向を凝らすかがポイントとなる。むろん、この城もそのあたりは工夫されているのだが、それを説明する前に、一言だけ言わせていただきたい。
 しつこいようだが、「よく考えられた縄張り」=「戦国末期の縄張り」ではない点を忘れないでほしい。どこぞの偉い先生が、このあたりの城をすべて「戦国時代末期」に位置づけてしまったがゆえに、たいへんな混乱が巻き起こっている。
 縄張りの工夫で、敵の攻撃を凌ぐという考え方は、生きるか死ぬかの時代となれば、当然、誰でも考えつくのであり、おそらく南北朝期でも、同様であったろう。ただし、当時はそれだけの労力を集められるだけ、地域領主の権力構造というものが成熟しておらず、それが可能となったのが、戦国時代初期なのだろう。
 この武居城が重要であったのは、15世紀から16世紀初頭であるらしく、そうであれば、当然、最も必要性がある時代に造られたと考えるのが妥当だろう。それゆえ、武田勝頼小笠原貞慶の修築という説があるが、私は三村氏オリジナルデザインだと思う。城とは、戦略の中に位置づけられてこそ、存在意義を持つものだからである。
 さて、この城は比高が低いという弱点を克服すべく、様々に工夫が凝らされている。特に、公園の駐車場側からの登城道となる西側斜面の処理は面白い。頭上の主郭、第二郭に沿い、横堀を南北に通してから、竪堀を六つ落としている。これは小笠原氏系に見られない遺構である。
このあたりが、「長い横堀を基点として、そこから竪堀を落としているのが白山城と同じ」ということになり、武田系の手が入っているといわれる所以なのだろう。確かに、白山城の東斜面に似ているが、必ずしも同一ではない。白山城は、ここほど等間隔に竪堀を落としていないはずだ。とりあえず、まったく否定はできないので、留保しておくが、この城を、いかなる戦略的観点から武田家が使ったかは、いまいち明確ではないのも、また確かである。
 さて、この城は35m×20mという主郭と20m×20mという第二郭が、主な曲輪であり、その他は、腰曲輪(20m×4m)が一つあるくらいで、戦闘時には、兵がいることさえ困難なものばかりである。つまり、敵を撃退する要害というよりも、単郭の館という概念を元にして造られた城という感がしてならない。
 また、西側斜面の処理に続く第二の特徴として、主郭のほぼ全周を、幅5mの回廊状の帯曲輪が巻いていることである。これは登城道でもあったらしく、西南部から始まり、西、北、東とぐるりと一周巻いて、東南側から主郭に入れるようになっている。案内板では、この主郭へ入るための虎口形式を「坂虎口」とよんでいる。これも小笠原氏系には見られない。
 北東の尾根突端部の遮断は、大堀切などで幾重にもなされている。こちらは、公園化されていないため、かなりひどい藪となっており、私は行かなかった。行った人も、遺構は不明確だったとのこと。いずれにしても、北東の守りはかなり気を使っている。こちらから攻め込まれた経験があったのかも知れない。同様に、東斜面にも四つほど竪堀を落としている。確かに、こちらも危なそうだ。
それ以上に危ないのは南の尾根である。この城自体が、南から伸びる尾根の突端に築かれているため、高地にあたる南側の処理には最も気を遣っている。深さ15m、長さ30mの大堀切で、尾根筋を遮断しており、その第二郭側には、この城唯一の土塁もある。
この城は、危険がいっぱいだが、館としても使うためには、致し方ない選地だったのだろう。それを裏付けるように、十六世紀初頭には、三村氏は移転を余儀なくされている。
 小規模な上、館兼用という中途半端な位置づけのため目立たないが、緻密に練られた縄張りと、個性的な遺構は、強い自己主張を感じる。
意外な拾い物であった。
写真は、唯一の横堀と竪堀群、本曲輪、二曲輪から見た本曲輪