読者とのギャップ
さて、世の中は押尾学や酒井法子の報道で沸き立っていますね。
過失致死の可能性もある押尾容疑者は救いようもありませんが、酒井法子の場合、結婚した相手が悪かったとしか言えませんね。
私はファンではありませんが、同年代として残念でなりません。
やはり十四歳でスカウトされてから、芸能界一筋で生きてきた彼女は、やはり「世間知らず」だったのかも知れません。
そう考えると、今の若い作家たちは、少しでも売れると、すぐに専業に転じ、勝手気ままな生活を送っているようですが、他人事ながら心配になってしまいます。
インタビューなんか読むと、そのご発言の数々が、<お塩先生>とあまり変わらない方々も散見されます。
二十代で専業になり、世間を見下した生活を送り、それでも四十過ぎてから、いいものが書けると思っているのですかね。
社会経験が少ない作家の描く作品は薄っぺらいのです。要は、二十代から三十代という貴重な人生経験を積める時期に、社会に出て様々な経験を積んでいないと、四十代以降にいい作品は書けないと思います。
「お前らおっさんのしょうもない経験なんていらねえよ」と言いつつ、さも自分自身が経験してきたように、様々な社会の実相をたくみに描く若手作家もいます。
しかしそれは、「りんごの絵を見てりんごを描いている」だけで、本当のりんごを見て写生しているわけではないのですよ。
その描写力があまりに巧みなため(私は見破れますよ)、一般読者にはわからないというだけなのです。
それでも売れるのは、読者たちも本当のりんごを知らないか、求めていないからなのです。
『北条氏照』を出し、その反響がブログなどにポツポツと出始めてわかったのですが、必ずしもすべての読者が、本当のりんごを求めてはいないということを痛感しました。
彼らはリアリティある歴史小説を読みたいのではなく、豪傑譚を読みたいのです。
そして、豪傑譚こそが歴史小説だと勘違いしているのです。
「活躍が少ない」
「筆者の能力不足で氏照の魅力が伝わらない」
「強い人でなく、いい人になっている」(意味不明)
読者の方々が、歴史小説のヒーローの典型として、司馬先生の竜馬を念頭に置いているのはわかります。司馬先生のキャラ作りに影響された「りんごの絵を見てりんごを描いている」作家たちの作品も多くあります。
でも、氏照は竜馬じゃないのです。
氏照が華々しい活躍を示した個性的かつ魅力的な人物であったなら、1960年代には、著名作家の誰かが取り上げていたでしょうね。
氏照の書状から推察されるその生真面目な人柄を変えてまで、私は虚構のキャラを描きたいとは思わない。
勝頼もそうでしたが、試行錯誤を繰り返す苦悩する生真面目キャラのどこが悪いのでしょうか。その方がよっぽど、人間臭いと思いますが―。
あなたの周りに竜馬はいますか、あなた自身も含めて、大半は勝頼や氏照じゃないでしょうか。
まあ、ひとつ言えることは、私に対する読者の期待値が、「豪傑譚を読みたいだけ」という域を出ていないため、こうしたギャップが生じてしまうのかも知れません。