滝山城オフご報告

 本日は、10月刊行予定のビジネス新書『天下人の失敗学(仮題)』の初稿を版元に送ったので、ようやく手すきになりました。最近は立て続けに原稿の節目がきて、一服の連続です(煙草はすいませんが)。
 それまで、身を削るほどの集中力で推敲していた原稿が手を離れた時は、気が抜けたような気がします。とは言うものの、続いて9/10締めの「KENZAN! Vol.10」の推敲が残っているので、このレポートを終わらせたら、また戦闘再開です。
 さて、9/5(土)、総勢二十名余のメンバーで、滝山城オフを開催しました。
 今回は4月、7月と流れた末の三回目なので、どうしても実現したかったのですが、今までのおつりがくるような晴天に恵まれ、しかも暑くもなく、絶好の城めぐり日和となりました。
 私の場合、滝山城にはこれまで五回ほど行ったことがありますが、そのどれもがクルマで中の丸直行というパターンだったので、今回のバスを使って寺谷戸から登るコースは初めてでした。
 純真学園女子高前バス停で下車し、中山勘解由屋敷跡を右手に見つつ、登城開始です。山城ではないので、緩やかな登攀路が太った身には助かります。
 あっという間に最初の堀に到達。それまでも削平地らしきものはあるのですが、遺構としてはここからでしょう。そのまま信濃屋敷を経て二の丸東馬出、大馬出、南馬出を経て西馬出へと歩きましたが、このあたりは、五年前に「埋もれた古城」のうもちゃんから説明いただいた二の丸防衛構想の話をまねっこして語りました。今ではこの戦法は常識的に語られていますが、当時は「埋もれた古城」にしか記されていなかったものです。
 北条氏は急速に広がる上野・下野戦線への兵站補給地としての役割と、檜原街道から寄せてくるであろう甲斐衆に対する境目の城の役割という、ふたつのミッションを滝山城に課しました。「兵站基地として広い城域がほしい、しかし城を広くすれば、それだけ防御にかける兵員数も必要になる」この矛盾を解決したのが、緊急時には外郭ラインを縮小し(戦わないわけではありませんが)、二の丸まで敵を引き寄せ、強固な馬出で敵の攻撃を防ぎつつ、反転逆襲するというプランだったわけです。実際に、そのプランに従い戦国最強集団の猛襲を防いだわけですから、感慨深いものがあります。むろん拙著『北条氏照』の冒頭シーンでも描かせていただきました。
 というような話をしつつ、三の丸方面に転じ、小宮曲輪の北東ライン沿いに山ノ神曲輪に向かいます。ここでの見せ場は小宮曲輪北端にある「屈曲スロープ型枡形虎口」です。これはあまり知られていない北条流築城術の精華です。八王子城御主殿に至るスロープが山の中に再現されていると思っていただければ幸いですが、曲げの角度もスケールも似ています。同様の四回曲げスロープは山中城の北条丸にもありますが、滝山城の方が人工的な気配が濃厚でわかりやすいはずです。詳しく知りたい方は、『戦国の堅城』P105を参照下さい。
 さて今回は、西端の山ノ神曲輪まで行きました。中田正光先生によると、ここから高月城まで断続的に切岸遺構が続いているらしいのですが(「よみがえる滝山城」P69)、山ノ神曲輪自体が漫然とした造りで、高月との狼煙連絡用曲輪といった感が否めず、本当にこのあたりまで城域と言っていいのかどうかは疑問です。
縄張り研究的見地から遺構と認定できても、当時の氏照の常備兵力からしても、そこまでの兵員配備は困難だったでしょうね。それを裏付けるように、山ノ神曲輪と小宮曲輪の中間の細尾根は、一ヶ所、掘り切ってあります。そこが有事の防衛ラインだったのかも知れません。
 ということで、いよいよ二の丸、中の丸、本丸へと向かいました。ここでゲストのBさんから目からうろこの話を聞きました。
 よく中の丸と本丸は大石氏時代の遺構で、それ以外は氏照時代と言われていますが、それは尺の違いでわかるそうです。長くなるので詳述は避けますが、この問題は八王子城でもよく出てくる話題なので、気になる方は椚先生の『戦国の終わりを告げた城』を参照下さい。
 というわけで、今回のオフも無事終了しました。
これにて氏照シリーズ三連発は完結しましたが、好評につき、年内にもう一度、どこかでやろうということで、盛り上がっております。
 それにしても滝山城は本当にいいお城です。何度きても新しい発見があります。冬場にもう一度、来てみたくなりました。

今回の写真は滝山城の写真としては珍しいものにしてみました。

谷戸の中山勘解由屋敷跡

小宮曲輪と山ノ神曲輪方面を仕切る堀切

本丸北西に見られる、北側にも土塁のしっかり残った用途不明の曲輪